【地歴公民科】Social Distance あるいは「近さ」への問い

この度のいわゆる「コロナ禍」に伴って、多くの「流行語」が生まれました。「3密」はその典型例でしょう。「ソーシャルディスタンス」もその一つに挙げることができるでしょう。

そもそもSocial Distanceとは社会学的の概念で、世代や階層間の社会的、心理的距離(一種の隔たり)を意味するものです。したがって、人と人との間隔をあけて行動しましょう、という意味は本来的にこの語がもつものではありません。英語圏のニュース等を見ておりますと、感染予防のための間隔をもった行動はSocial Distancingとingをつけることにより、「社会的心理的隔たり」としてのSocial Distanceとは区別しているようです。

調べてみますとWHOでは「我々が社会的に大切な人や家族との接触を絶たなければならないという意味ではない」ということで身体的(物理的)に距離をとることーPhysical Distancingーという語を用いているようです。なお気になってドイツ語での表現を確認したところ、「räumliche Distanzierung」(空間的に距離をとること)となっており、Physical Distancingと意味的には近い語を使っています。

さて、この休校期間中、オンライン授業のためGoogle Classroomというサイトを活用していました。そこに課題が「配布」され、連絡がそこでなされ、Classroomまさに教室がオンライン上に存在しているかのようでした。ある意味では、空間的物理的な距離が全くないところに「教室」がありました。どこにいても、そこに「教室」がありました。教員として気になるのは、Google Classroomという教室に「心理的な距離」というものはどの程度あったのか、ということです。

いつでもどこでもアクセス可能な社会を「ユビキタス社会」と言いますが、もともと神学概念で「神の遍在」を意味します。この場合、まさに「教室の遍在」、あるいは「教師の遍在」だったのではないかと思います。常にそこに教室があり、そして教師がいる。しかし、もしかしたら、オンラインというのは、逆に遠く感じるものもあったかもしれません。答えは出ない問題です。

もうすぐ学校が始まります。まずは、とりあえずは学校を始めることができるという事実に率直に感謝したいと思います。17世紀ヨーロッパのペスト禍を経験した作家デフォー(言わずと知れた『ロビンソン・クルーソー』の著者ですね)は、無事に生活できているということは神の思し召しによる奇蹟的救済に他ならないと記しています。ここで、江戸時代の思想家、三浦梅園の次の言葉を想起せずにいるのは難しいように思います。

「神鳴り、地震りたりといへば、人ごとに頸をひねり、いかなることにやといひののしる。我よりして是を観れば、其雷地震をあやしむこそあやしけれ。(…)其うたがひあやしむべきは、変にあらずして常の事なり」(『多賀墨卿君にこたふる書』)

すなわち、雷や地震が起こったといえば、誰もが首をひねり、どういうことなのかと言い騒ぐ。私からみれば、その雷や地震を不思議に思うことこそ不思議である。疑い不思議に思うべきなのは、変ではなくて常のことだ、と記しています。

教室に通うということが日常であるとすれば、今回の休校は、その日常に感謝しつつ、なぜそうした日常がありうるのかということを考え直す契機であったのかもしれない、と私は思います。そして、physischあるいはräumlich(物理的・空間的)な距離の中に、心理的近さをもった教室(まさに「ホームルーム」)であってもらいたい、と思います。

(嶋﨑)